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 穏やかな風が吹き抜ける。緩やかに回る風車とまだ青々とした麦が波を立てる。
「んー……っ」
 朝の匂いにざわめき出す町。その一軒から一人の青年が現れた。大きく伸びをして、まだ眠そうな目を擦り、寝癖だらけの頭を振る。
「おはよう、ユアン。まだ眠そうね」
「セシル……」
 小さな笑い声に目を向けると、水桶を抱えた女性が小さく笑っていた。恥ずかしかったのか、ユアンはばつが悪そうに目線を逸らした。
「しょうがないだろ、寝起きなんだし……」
「でも、寝癖くらい直しなさい?」
 セシルは傍らに置いた水桶に手を浸すと、あちこちに跳ねたユアンの髪を整えていく。目を瞑り、 大人しくされるがままになっている。そんなユアンに優しく目を細め、セシルは髪を梳く指を離した。
「出来たよ」
「ん、ありがと、セシル」
 仕上がりを確かめるように髪を触る。セシルが目の前で微笑んでいるから、変なことにはなっていないはず。そう思ったユアンは、セシルを家に帰したところで町の喧騒がいつもと違う事に気が付いた。
「何かあったのかな」
 穏やかでないものを感じ取ったユアンは、町の集会所にもなっている町長の家へと向かうことにした。
 町長の家は、町の奥にある。家の脇にある葡萄の木に掛けられた掲示板の周りには人が集まっており、中には泣き崩れている人もいた。状況が呑み込めず戸惑うユアンの肩が軽く叩かれた。
「町長……」
 振り向くと、恰幅のいい初老の男性が佇んでいた。町長であるクラージュだ。いつもは穏やかに笑っている町長の顔が悲しげに見える。
「何が、あったんですか?」
 ユアンが尋ねると、クラージュの顔はますます曇る。人をかき分けて掲示板を見れば、ユアンの表情も凍りついた。
「戦争が始まる」
 背後の女が言った。
「こんな日が来るとはな……」
 背後の男が言った。
 掲示板に張られた、王宮からの掲示。それは、戦争の開始を告げる物であり、徴兵の令であった。

 この国の軍備は、自衛の為に必要な最低限しか置かれていない。 王国軍は存在するが、志願兵のみで構成されるためさほど大きな規模ではない。 他国と戦争をする場合において徴兵を行い、兵力を補充する。
 戦争など、ここ暫くは起きていなかった。少なくとも、この町に従軍の経験がある者はいない。 志願兵として軍に入り、何事もなく退役した者はいるが、その程度。人々は、知識としてしか戦争を知らない。その悲惨さしか、知らない。
「俺は、怖いよ」
 ユアンは言う。玄関前の石段に腰掛け、膝に腕を置いて、組んだ指を額に当て、俯く。
 陽は既に落ち、月明かりと冷えた夜風がユアンの頬を撫でていく。
「だって、死ぬかもしれない」
「それは、皆同じよ」
 隣に座るセシルは言う。折りたたんだ膝を抱え、ユアンの方を見て、微笑む。
「私だって、怖いわ。自分がどうなるか、皆がどうなるか。ユアンが、どうなるか」
 組み合わせた指が、震えている。月光の加減で茶色の瞳が揺れたことにユアンは気が付いた。
「本当は、行ってほしくない。でも、国の命令だもの。仕方ない、のよね」
 セシルの華奢な手が、そっと石段に置かれる。自然と、ユアンの手が重ねられた。
「ユアン……?」
 見上げた横顔は凛々しいもので、それがなおセシルの胸を締め付ける。
「帰ってくるよ、絶対」
 重ねられた手が、確かな力でセシルの手を握る。そこにある決意が、伝わってくるようで。
「……うん」
 その手はもう、冷えてはいなかった。

 数日後、町の男達は出立の時を迎えた。
「あなた、これを」
 町長夫人であるオネッテが、クラージュの手に何かを握らせた。
「お前、これは……」
 クラージュは、手の中にある金時計と妻の顔を交互に見た。それは以前クラージュがオネッテに贈ったもので。
「お守り代わりです。あなたが、無事に戻ってこられるように。私の代わりに、守ってくれるように」
 両手を添えて、時計を握らせる。その表情は、優しく穏やかで、クラージュは胸を詰まらせた。
「あなた。あなたがそんな顔をしてどうしますか。あなたは、この町の長です。それに変わりはないのだから……」
 オネッテの手が、クラージュの背中を押した。その力こそ弱いはずなのに、クラージュにはとても強く感じられた。
 人々は、それぞれに別れを告げる。戦争が終わったらすぐに戻ると。必ず生きて帰ると。その表情は涙であり、笑顔であり。
「帰ってくるよ、必ず。君のもとへ」
 強く手を握り誓うユアンの表情は、今まで見たどんな表情より、凛々しく、優しかった。
「うん、必ず帰ってきてね」
 手が離れる瞬間。優しく笑っていたセシルの瞳から、耐え切れず、涙が零れた。
「私、ずっと待ってるから」
 きらりと、陽光を受けて煌めいた雫は、ユアンの胸に深く刻み込まれた。
 男達は、迎えに来た馬車に乗り込む。全員が乗ったことを確認すると、王国から来た目つきの鋭い役人が出発の合図を出す。
 馬の嘶き、蹄の音。馬車は土煙を巻き上げて王都へと向かう。 残された者は、馬車が見えなくなるまでずっと手を振っていた。ただ、愛しい人の帰りを、祈るように。